岡山ナザレン教会

第8回全国壮年大会−概要




宣教大会:Duarte師 メッセージ(要約)
文責:梅實 淳一


宣教的教会(Missional Church)

 ナザレン教会には、私たちをナザレンの群れとする3つの中心的な価値があります。@「キリストの教会」であるということ。A「聖なる者の集い」であるということ。そしてB「宣教的教会」であるということです。今回は、ナザレン教会とは宣教的教会であるということがどういうことかを考えてみたいと思います。

宣教は教会の働きではなく、神の業

 宣教的教会というものは、宣教は教会のものではなく、神のものであるということをわきまえて、それに従う教会のことです。神様は宣教をなさる方です(父なる神を通してなされる御子と聖霊の宣教。教会はこの神の宣教の中に組み込まれています)。ですから、私たちが神様を本当に知るということは、私たちがこの神様と協働する者として、神様に仕えるものになるということなのです。私たちが何処か遠くへ行くということが、私たちを宣教師にするのではありません。私たちが失われた者たちのために何を、どのようにするかが私たちを宣教師にするのです。宣教とは遣わすということ。私たちが必要とされている場所で役立つものとなるために、私たちが敢えて快適な生活(好む快適さ)を離れるということです。そして、そのことは今私たちがいる場所で宣教する(起こる)ことなのです。

青写真より、神の足跡

 私たちはあまりにもしばしば、神様が何をなさろうとしているのかを知る前に、教会のプログラムのことを考えてしまいます。もちろん教会の青写真を描いたり、計画を立てることは重要ですし、私も好きです。しかしそのような計画と、神様が教会を通して行おうとしていることが同じであるとは限りません。何としばしば私たちは神様を私たちの計画の中へと押し込もうとしているでしょうか。そうなると、私たちは計画の中にあることしか行わなくなります。神様が私たちの計画にあわせなければならないというのです。しかしそれは間違えです。私たちの方が、神の宣教の働きに、神の歩む足跡に従うべきなのです。神の足跡は初めから全部が見えるわけではなく、一歩一歩しか見えません。けれども、私たちは信仰をもって、神様が正しい方向へ導いてくださっていると確信しながら歩むのです。明日、足跡の方向は向きが変わるかもしれない。その時、私たちは神の足跡の向きが間違えているという権利はありません。神ご自身が教会がどちらに向かって歩むべきか決める権利があるのです。神様は違う人びと、違う出来事、多様性を用いてその働きをなされます。多様性こそ教会の働きがなされる鍵です。

情熱的であるか?

 「地の果てまで」(使徒言行録1:8)福音を携えて出て行く。それが宣教的な教会です。そして地の果てとは単に地理的な遠さや場所を指しているのではありません。扉から一歩出た隣の家が地の果てなのかもしれない。仕事の同僚がいる、その場所が地の果てなのかもしれない。そのように、イエス様の事を知るべきなのに知らない人たちこそ、まさに地の果てです。  では、この宣教の働きを担うのにふさわしい人はどのような人でしょうか?ある人は宣教について学んだ事のある人。神学的な学びをした人。教会の働きに経験豊富な人と答えるかもしれません。しかし「この人こそ、宣教の働きにふさわしい」と言うとしたら、それは情熱をもち、そのために何とかしようとしている人のことです。「あなたはイエス様の事を知っていますか?従いたいですか?」。もし今の質問に「はい」と応えたいと思うなら、あなたはその宣教の働きに相応しい。イエス様のことを語りたいという内から出てくる情熱、それこそが、あなたを宣教の働きに相応しい者とします。  神様は宣教をなさるお方です。神様はこの業を必ず成功なさります。神様は私たちに聖化の恵みを語れと望んでおられる。もし、ナザレン教会がそれに応答しないなら、誰か別の人を起こされ、神様はそれを行うことでしょう。イエス様の宣教者になるということに特別な資格は必要ありません。情熱と信仰だけが必要です。イエス様は私たちにすばらしいことをしてくださった。それと同じことを、私たちは隣人にも届けたいし、そうすることを神様は望んでおられる。ですから皆さん! 宣教する者でありましょう!


派遣の言葉:石田 学 理事長
その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。  ヨエル書3章1−2

夢を語れ、幻を見よ!!

 預言者ヨエルはペンテコステの出来事を預言して語りました。ヨエルは、男も女も、年寄りも若者も、すべての人が未来を語り、未来を見るようになると言うのです。それが、あの聖霊降臨の日に、弟子たちに起きたことでした。そして今もわたしたちの現実であるはずです。真に喜ばしい夢は、教会という敷居の中にとどまってはいません。だからわたしたちは、夢と幻を語るため、そしてそれを現実にするために、世に出て行くことが使命であり喜びのはずです。


 今、自分自身に尋ねてみましょう。わたしたちは神の霊の与えてくれる夢を見ているでしょうか。聖霊の示す幻を見ているでしょうか。あまりに現実にばかり目を向け、意気消沈させられていないでしょうか。 神と共に生きる者が見る未来の夢、それは、人々が民族や人種やもろもろの違いを超えて受け入れ合う夢です。未来の幻、それは、敵と味方が和解し、受け入れ合い、敵と味方という区別が亡くなる幻です。キリストが再び来られ、神の国をもたらしてくださる夢、人々の目から涙がぬぐわれ、死も痛みも悲しみもない世界が実現する幻です。聖霊が降る時、わたしたちは神の国を待ち望むようになり、やがて御国が来ることを信じて生きるようになります。神と共に生きるわたしたちは、そんな夢を語り、幻を人々と分かち合うため、世に遣わされる神の民なのです。


 わたしたち日本のナザレン教会は、宣教プロジェクトに取り組み、宣教宣言を採択しました。それは一言でいえば、すべての牧師、すべての信徒、すべての教会そして教団が宣教的(missional)であろうとすることです。その時、わたしたちひとり一人が主キリストの証人であることを自覚することでしょう。その時、わたしたちは財政の心配よりも福音が行き届いていない人々の心配をすることでしょう。その時、わたしたちの教会は高齢化や人数の減少を心配するよりも、人々が生き生きと福音に生き、夢を語り、幻を見ることを求めて、宣教の体制を整え、力を注ぐようになることでしょう。


 ブリジー博士は、信仰の夢を語り、幻を見る者が何を確信すべきかを語りました。

あかつきに太陽、などて沈むべき。

この言葉がわたしたちの教団の原点であり、困難に立ち向かう力の原点です。ですから、ナザレンの信仰の原点であるこの歌を歌いながら、夢を抱き、幻を携えて、わたしたちはここから出て行こうではありませんか。喜びをもって主に仕え、福音を宣べ伝えるために。